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◇ 第一章 マーケティングの危機-----お金では解決できない! ◇ |
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◆ 土足マーケティング : 生活者の関心をひくための古典的なアプローチ だれも家のポストがくずみたいな郵便物であふれかえってほしいなんて思わない。ピープル誌を読むのは広告を読みたいからではない。3分間のコマーシャルを見るためにテレビを見ているわけではない。 広告は「私たちはなぜ注意を払うか」という点が重要なのではない。なのに、マーケティング担当者は、私たちがいかにすれば広告のほうを見るようになるか、だけが関心事のようである。私たちの意識あるいは無意識にある種の種を植え付けることによって考え事の流れをじゃまする。そんな広告がいい広告とされていた。そうでなければ、広告費の無駄使いだった。森の奥深くに広告があって、だれも見向きもしなければ、広告はないも同然である。たしかに。 このような考えかたであれば、広告とは、生活者の関心をひき、なんらかの購買行動をうながすようなメディアである、という定義になる。だから、30秒のテレビコマーシャル、25インチ角の新聞広告に重要な意味があった。土足マーケティングなしには生活者の購買行動をうながすことはできないし、買うという行動に結びつかなければ、広告の意味はない。 ところが皮肉なもので、市場がますます混み合うにつれ、生活者の心に土足で踏み込むことは難しくなってきた。理解を助けるために、空港をイメージしてみてほしい。いまあなたは早朝の空港にいる。搭乗ゲートに向かうあなたの周囲には、早朝ということでほとんどひとはいない。そこに突然、話しかけられた。「すみません。七番ゲートにはどうやっていけばいいのですか?」もちろんあなたにとっては不意打ちのことだ。しかし、相手を見るとまあよさそうなひとだし、時間はある。それまでしていた考え事を中断し、あなたは彼に、7番ゲートを示してあげる。 では、同じ空港で、午後三時だったらどうであろうか。しかもあなたは飛行機に乗り遅れそうな状態で、急いでいる。ターミナルはひとでごったがえしている。ここまで来る間にすでに五回もの寄付を募るひとに擦り寄られている。さっきから頭痛も始まった。 ここでさきほどと同じ男が同じ質問を、したとする。賭けてもいいが、あなたの反応は、違うはずである。あなたがもしニューヨーカーだったら、彼のことを全く無視するかもしれない。無視しないまでも、「失礼」と一言だけ言って、目指すゲートに向かうはずである。 三番目のシナリオでは、事態は、さらに悪い。もしゲートを聞かれることが彼で四人目だったとしたらどうだろうか? 10人目だったら? 100人目なら? そうなってくると、だんだん、ただの雑音、になってくるだろう。 これと同じことがあなたの実生活でも起こっているのだ。あなたは忙しい。やるべきことは山積み。時間はない。絶え間なくだれかに話しかけられている。あなたが毎日なんらかのメディアから語りかけられる時間は四時間を超える。そしてそのたいていのものは、あなたが何がをすることのじゃまになっている。ゆっくりと静かに考え事をすることは、日を追う毎に難しくなっている。 皮肉なことに、これまでのマーケティング担当者は、この問題に対してさらに悪化するようなことをしてきた。「土足マーケティング」担当者は、この混乱とマーケティングの無力に対して、ますますわれわれを混乱させることを、進めていたのだ。 事実は物語る。過去三0年の間、広告担当者たちは宣伝広告費を飛躍的に増やした。そしてそれは、広告のうるささを増す歴史でもあった。いかにしてあなたの生活をじゃまするかに、心血を注いできたと言っても過言ではない。 30年前の服には、でっかいロゴマークなどつけていなかった。テレビ番組を中断するコマーシャルは控えめだった。雑誌に三00ページもの広告が載るなんてことはなかった(現在のコンピュータ雑誌を見よ)。PBSを見るのに参考書と首っ引きなんてことは、当然だが、なかった。 混乱が増えるにしたがって、広告担当者たちは、ますます混乱をもって対処しようとした。これだけの混乱の極みなのに、だれもそれを問題と思わなかったため、だれ一人としてそれを解決するために乗り出さなかったのである。 |
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